こぎん刺しについて



さかのぼる事江戸時代、津軽の農民は津軽藩の厳しい管理下に置かれ、「農家倹約分限令」により、農民は麻しか着ることが許されませんでした。

極寒の津軽では綿花が育たず木綿が高級品とされていたからです。

 

 

確実に手に入れることのできる麻ですら栽培から織りまですべて手作業で、1枚の麻布にするまでに膨大な時間と労力が費やされ、大変貴重なものでした。

こうして出来上がった麻布ですが、薄くゴワき、保温性が貧しく、擦り切れにも弱いもので、仕事着としても、津軽の極寒の冬を過ごすことにしても大変不向きなものでした。

しかし、厳しい掟に縛られている農民にとってはこの麻布こそが唯一の衣服の材料であり、

温かさや丈夫さを求め工夫を凝らし苦しい生活を耐え忍ぐしかありませんでした。

 

 

出来上がると、晴れ着→日常着→仕事着→擦り切れたり汚れがひどくなると染め直したり、2,3重にも刺し重ね、つぎはぎしたりして何世代にもわたって使われる事は当たり前でした。

 

 

こぎん刺しとはまさに、生活の知恵から発展した刺し子技法なのです。

 

 

他の刺し子との違いは、布の縦の織目に対して1,3,5,7と奇数に運針しながら目を拾って刺していきます(奇数刺し)

その繰り返しにより幾何学模様が完成するのが特徴です。藍染の粗い布に白い木綿糸で直線的に刺繍を施していくのが古典的な手法です。

こぎんの基礎模様(モドコ)には、猫の足跡、豆っコ、くるみなど身近で親しみやすい名前がついています。

 

 

明治に入ると最盛期を迎えます。いつしかこの生活の知恵から生まれた技法は、女性の農作業の次に大事な作業となっていたのです。

そして様々な模様を生み出し、仕上がりの美しさを競うように発展していきました。

職業にする人もいたほどです。

娘たちには幼少から技術を口伝いで引き継がれ、1人前の刺し手じゃないと嫁にはいけないといわれるほどでした。

 

 

もし、着物を購入していたとしたら、

明治初期の頃は、浴衣一反が玄米一俵、現在の価格にして25,000円以上。

半纏綿入りが玄米二俵50,000円以上ととても高価なものだったということがわかります。

 

 

藩からの倹約令による色糸の使用を禁止されていたため藍染の布に白い木綿糸で刺していましたが結果的に紺×白の究極のコントラストの美が生み出されることになりました。

 

 

明治24年には上野-青森間に鉄道が開通し、27年には青森-弘前間に鉄道が延び、物資が容易に手に入ると急速にこぎんは廃れていってしまいました。

 

 

昭和初期の民芸運動により発掘され注目を浴び、ほとんど資料の残っていなかったこぎん刺しの解明につながっていきました。

そして現代はファッションとしてこぎん刺しを楽しむようになり、カラフルなこぎん刺しも生まれています。

 

 


西こぎん

岩木川より西側、岩木、西目屋地域

 

肩に白、紺の細い横縞に刺してあるのが特徴。縞こぎんとも呼ばれる。3種の中でもとりわけ緻密で繊細なものが多く、高い技法が伝えられていることがわかる。

山歩きの魔除けに、背中にクツワつなぎが刺されたものが多い。

東こぎん

岩木川より東側、お城周辺の穀倉地帯

 

太めの麻糸でざっくりと織られた布に刺されたものが多い。縞模様はなく、全面に単位模様を繰り返し使った大胆でおおらかなものが多いのが特徴である。

三縞こぎん

岩木川の下流、北津軽郡金木地区

 

前身頃と後ろ身頃に大胆な3本の縞模様が入っているのが特徴である。この地帯は冷害や凶作に見舞われることが多く、生活の余裕のなさから刺し手も少なく、現存する三縞こぎんは非常に少なく、貴重なものである。




ぎん刺しの材料は、布、針、糸 これだけです。

これさえあればいつでもどこでも出来る手軽さが魅力のひとつでもあります。

私個人のこだわりは、刺繍糸ではなく、こぎん糸、もしくはそれに似た光沢のないマットな色感の糸を使うことです。

ぷっくり感がちがいますよね。よりぷっくり感を求めて、くるみボタンなど小さなモドコ、運針が少ないものはより太い糸を使うこともあります。

刺し上りが縦菱になる気軽な布があればいいのですが、なかなか手に入りにくいので綿コングレスが一番気軽に使えます。

布がもっと細かくなれば(annKoginのイヤリング等)刺し子糸を使ったりもします。

糸の太さは布により使い分けるといいと思います。

また、レシピ本等に6本取りだとか8本取りで刺す、だとか書かれていてもそれは撚りの甘い刺繍糸に限ったことです。

撚りが強くかかっているこぎん糸、刺し子糸は糸は割ってしまうと糸が汚くなります。なのでそのまま使います。